Masuk朔弥さんは、私を抱く腕を解かなかった。 片手で端末を取り、通話へ出る。 「何だ」 『一条さんの周辺を調べているそうね』 静かな寝室に、冴子の声が響いた。 朔弥さんの腕が、わずかに強くなる。 「誰から聞いた」 『そんなことはどうでもいいでしょう』 「俺が調べていることを母さんが知っている。その事実のほうが重要だ」 返事はなかった。 何も答えないことが、答えになっている。 『今すぐ手を引きなさい。一条さんまで敵に回したら、会社がどうなるかわかっているの?』 「母さんは、一条を選ぶのか」 『私はあなたを守ろうとしているのよ』 聞き覚えのある言葉だった。 守るため。 そう言って冴子は、私たちの離婚届を提出した。 『あの女にかかりきりになって、あなたは冷静さを失っているの』 「あの女ではない。真尋だ」 朔弥さんの腕が肩から離れた。 代わりに、私の左手を探す。 指輪のはまった指へ、一本ずつ彼の指が入ってきた。深く絡められ、手のひらが重なる。 『その人のために、一条さんとの関係まで壊すつもり?』 「関係を壊そうとしているのが誰なのか、これから確かめる」 『会社とその人、どちらを取るつもりなの』 朔弥さんが、私を見た。 端末の向こうにいる冴子ではなく、私だけをまっすぐに見つめる。 暗い部屋の中でも、その目は逸れなかった。 「真尋を選ぶ」 絡んだ指に、力がこもる。 「だが、会社も一条には渡さない」 『朔弥』 「二つに一つだと思っているなら、母さんは俺を知らなすぎる」 冴子が息を呑んだ。 「真尋も会社も守る。失うのは、俺から奪おうとした人間だ」 『母親を脅すつもり?』 「警告している」 朔弥さんの親指が、私の指輪をゆっくりとなぞった。 「今度、真尋に何かしたら、母親ではなく敵として扱う」 『私は、あなたのために――』 「俺のためなら、何もしないでくれ」 通話が切れた。 それでも、握られた手は離れない。 冴子へ向けた言葉のはずなのに、私の胸ばかりが苦しくなっている。 「……私を選んだら、会社を失うかもしれませんよ」 「失わない」 「どうして言い切れるんですか」 「君を選ぶことと、負けることは別だ」 迷いがない。 以前の朔弥さんなら、私を守るとい
言わなければよかった。 寝室の扉が閉まったときには、朔弥さんが私の前まで来ていた。 「同じ部屋で寝てほしいのか」 「そうは言っていません」 「ここではないのかと聞いただろう」 「確認しただけです」 一歩下がると、膝の裏がベッドへ触れた。 朔弥さんが私の頬へ手を添える。親指が唇の端をなぞり、そこで止まった。 「煽らないでくれ」 「この程度で?」 「今の俺には、この程度でも十分だ」 唇を見られている。そう気づくと、何を言い返すつもりだったか忘れてしまった。 「真尋。同じベッドに入って、君を抱かずに眠れると思うか」 私は頬に添えられた手へ、自分の手を重ねた。 「先生にも止められましたよね」 「わかっている。だから別室で寝る」 返事を待たず、朔弥さんは私から離れた。 髪を一房すくい、その先へ口づける。唇には触れないくせに、そんなことはする。 「おやすみ、真尋」 扉へ向き直った人の袖を、私はつかんでいた。 朔弥さんが足を止める。 「君を一人にする気はないって、言いましたよね」 「隣の部屋だ」 「病室には会社まで呼んだのに、寝るときは隣なんですね」 袖をつかんだ指を見下ろされる。自分で言っておいて、目を合わせづらかった。 「……一人で寝たくないのか」 そこまで言わせるつもりだろうか。 私は袖を離さず、空いているほうの枕を見た。 「二つ、用意してあるじゃないですか」 朔弥さんは長く黙ってから、私の手を袖から外した。 断られたと思った。けれど、その手を握ったままベッドへ戻ってくる。 「わかった。一緒に寝よう」 嬉しくて、すぐには返事ができなかった。 「ただし、今夜は俺を困らせないでくれ」 「いつも困らせているのは、そちらです」 朔弥さんは言い返さず、掛け布団をめくった。 *** 着替えを済ませ、寝室の明かりを落とした。 私が横になると、朔弥さんも反対側からベッドへ入ってきた。 遠い。 大きすぎるベッドの、端と端だ。 しかも、背中を向けている。 さっきまで頬や髪へ触れていた人とは思えない。 「朔弥さん」 「何だ」 「落ちますよ」 「落ちない」 「口説く相手に、背中を向けるんですか」 肩が動いた。ため息だったらしい。 ようやくこちらを向い
車は、以前暮らしていた家とは違う方向へ走っていた。 「どこへ向かっているんですか」 「もうすぐ着く」 「答えになっていません」 「見たほうが早い」 車が止まったのは、街を見下ろす高層住宅だった。 入口には警備員が立ち、私たちの車が着くと同時に扉が開く。朔弥さんに支えられて降りると、後ろの車から秘書や弁護士たちも続いた。 「全員、来るんですか」 「上に仕事ができる部屋を用意してある」 「まだ病室の続きをするつもりです?」 「終わるまで、君のそばを離れない」 専用のエレベーターで最上階まで上がる。 扉が開いた先には、広い玄関と、磨かれた床が続いていた。 大きな窓の向こうに街が広がっている。室内には淡い色の花が飾られ、柔らかな光が落ちていた。 生活感はないのに、冷たくはない。 「ここは……?」 「今日から住む家だ」 「誰の」 「俺たちの」 あまりにも当然のように言われ、聞き返すのが遅れた。 「いつ決めたんですか」 「昨日」 「私が入院したあと?」 「ああ」 「一晩で家を用意したんですか」 「正確には、部屋は以前から持っていた。内装を替えさせた」 簡単に言うが、一晩でできることではない。 リビングの奥には、私が横になれる長椅子がある。冷蔵庫には医師から渡された食事の注意に合わせたものが揃い、洗面所には見慣れた化粧品まで並んでいた。 寝室のクローゼットには、以前の家に置いてあった私の服が移されている。 「全部、運んだんですか」 「必要なものだけだ。足りなければ買う」 「これだけあれば十分です」 「遠慮するな」 「していません」 廊下の先に、まだ何も置かれていない部屋があった。 「ここだけ空なんですね」 「子どもの部屋だ」 思わず、お腹へ手を当てた。 「勝手に決めると、また怒られるからな」 「少しは学んだんですね」 「家具は二人で選びたい」 真顔で言われ、返事に困った。 まだ離婚無効の申立書へ署名していない。それなのに、この人の中では、私とここで暮らし、二人で子どもの部屋を作るところまで決まっているらしい。 居間へ戻ると、テーブルの上に一冊の分厚いファイルが置かれていた。 表紙には、印刷された文字がある。 『真尋をもう一度妻にするための計画書』 「……
私が口説き直してくださいと言ってから、一時間も経っていなかった。 病室の前が、騒がしい。 足音がいくつも止まり、控えめなノックが続く。最初に入ってきたのは、先ほどの顧問弁護士だった。その後ろに、朔弥さんの秘書、会社の法務担当、広報、警備責任者まで並んでいる。 個室とはいえ、ここは病室だ。 「何が始まるんですか」 「口説き直しだ」 朔弥さんは、当たり前のように答えた。 「私の知っている口説き方と、ずいぶん違います」 「俺も初めてだからな」 不安しかない。 ベッド脇の机では足りず、看護師さんに借りた折り畳み机まで運び込まれた。ノートパソコンが開かれ、書類が並べられていく。 「役所へ提出された書類の経路をすべて確認してくれ。原本に触れた人間、保管場所、持ち出された日時もだ」 朔弥さんの声から、先ほどまで私に甘えていた気配が消えている。 「母が会社の名前を使って連絡した相手も洗い出せ。今後、母からの指示はすべて俺の承認がなければ動かすな」 「承知しました」 「親族へ何を伝えたかも確認を。訂正が必要なら、今日中に俺の名前で出す」 指示が途切れない。 秘書が記録し、法務担当が必要な手続を確認する。警備責任者は、病院だけでなく退院後の警備について説明を始めた。 「朔弥さん」 「どうした」 「会社へ行ったほうが早くありませんか」 「君を一人にする気はない」 「だからといって、会社を病室へ呼びます?」 「俺が行けないなら、来てもらうしかないだろう」 少しも疑問に思っていないらしい。 法務担当が、遠慮がちに口を挟んだ。 「明日の臨時役員会ですが、本社でよろしいでしょうか」 「いや」 朔弥さんは、私を見た。 「場所はあとで連絡する」 「ここではやりませんよ」 「さすがに退院後だ」 「やる気だったんですか」 否定しない。 反省はしていても、加減を覚えたわけではないらしい。 「ひとつ聞いてもいいですか」 「ああ」 「これは、冴子さんへの反撃ですか」 病室にいた全員が、一瞬だけ動きを止めた。 朔弥さんは、机の上の離婚届へ目を向ける。 「違う」 低い声だった。 熱のこもった目で、私だけを見つめている。 「君を取り戻す準備だ」 私の胸だけが、場違いな音を立てた。 こ
映像通話が切れたあと、冴子からの着信はすべて拒否した。 朔弥さんは、すぐに病室を出ていこうとした。 「どこへ行くんですか」 「母さんのところだ」 「行って、何をするつもりですか」 「二度と君に近づけないようにする」 「もう会社にも病院にも入れないようにしたでしょう」 「足りなかった」 ドアノブへ伸びた手に、力が入っている。 今の朔弥さんを冴子へ会わせたくなかった。 「戻ってください」 「だが」 「お義母様と話しても、離婚届は消えません」 朔弥さんは動かなかった。 「朔弥さん」 私がもう一度名前を呼ぶと、朔弥さんはようやくドアノブから手を離した。 戻ってくる足取りは重かった。ベッド脇の椅子へ腰を下ろすと、両手を組んだまま俯いてしまう。 怒っているのだと思っていた。けれど、固く結ばれた唇を見ていると、それだけではない気がした。 母親に妻を傷つけられ、自分で書かせた離婚届まで使われた。朔弥さんも、傷ついているのかもしれない。 私は手を伸ばし、彼の髪を撫でた。 普段なら誰にも止められない人が、今日はされるがままになっている。 「真尋」 甘えるように名前を呼び、私のお腹を避けて腕を回してくる。肩口へ顔を埋めたまま、離れようとしなかった。 お腹の子のためにあるはずの母性本能が、なぜか戸籍上の元夫にまで向いてしまった。 *** 午前九時すぎ、顧問弁護士が病室へ来た。 机へ並べられたのは、家庭裁判所へ出す書類と、役所から取り寄せた離婚届の写しだった。 夫の署名。 妻の署名。 証人二人の署名。 間違いなく、私たちが書いたものだ。 「提出された時点で、お二人に離婚意思がなかったことを確認できれば、無効を求められます」 弁護士が、申立書を私たちの前へ置いた。 「お二人とも無効であることに異論がなければ、必要な手続を進めます」 「異論はない」 朔弥さんは即答し、ペンを取った。 自分の署名欄を埋めると、私へ差し出す。 「真尋」 私はペンを受け取らなかった。 「少し、考えさせてください」 朔弥さんだけでなく、弁護士まで私を見た。 「離婚したいのか」 「そうは言っていません」 「
翌朝、病室のカーテンの隙間から、白い光が差し込んでいた。 朔弥さんはベッド脇の椅子で眠っている。 会社へ戻るよう言ったのに、役員会の資料を確認したあとも帰らなかった。私の指のあいだに、朔弥さんの指が一本ずつ入っている。恋人つなぎのままだ。 眠っていても、眉間には薄く皺が残っている。ネクタイの結び目は緩み、前髪が額へ落ちていた。 そっと手を抜こうとすると、指に力が入った。 「……真尋」 寝言でまで名前を呼ばれ、動けなくなる。 起きたらからかってやりたい。けれど今は、空いた手で額の髪を払った。 昨夜、惚れ直したと言ったのは朔弥さんだった。 私も同じだとは、まだ教えない。 起こさないよう身体を動かした時、ベッド脇のスマートフォンが震えた。 御門ホールディングスの法務部長からだった。 「朝早くに申し訳ありません。社長はそちらにいらっしゃいますか」 「います。何かありましたか」 私の声で、朔弥さんが目を開けた。 すぐにスマートフォンを受け取り、通話をスピーカーへ切り替える。 「話せ」 『先ほど、区役所への確認が取れました』 法務部長は、そこで言葉を止めた。 『昨日付で、社長と高瀬さんの離婚届が受理されています』 何を言われたのか、すぐにはわからなかった。 「受理って……」 自分の声が、ひどく遠く聞こえる。 「私たち、離婚したんですか」 「していない」 朔弥さんが即座に否定した。 けれど、電話の向こうから返ってきた声は重かった。 『届出には、お二人の署名と証人欄が揃っていました。形式上の不備はありません。窓口へ持参したのは、ご本人たちではなく使者です』 「誰だ」 『窓口で本人確認を受けた人物は、御門冴子様です』 朔弥さんの手から、スマートフォンが落ちかけた。 あの離婚届だ。 私が署名して、朔弥さんへ渡した紙。 屋敷の書斎にしまわれ、記事へ写真を流された、あの原本。 「母さんが出したのか」 『はい。記入済みの届書は、当事者以外でも使者として持参できます。お二人から不受理の申出もありませんでしたので、窓口では受理されています』 「俺たちに離婚する意思はない」 『届出時に双方の離婚意思がなければ、離婚は無効です。ただ、受理された記載を訂正するには、家庭裁判所での手続
反抗には、たいてい請求書がつく。 翌朝、会社に入った瞬間、そのことがよくわかった。 昨日の夕食の席での出来事は、都合よく形を変えて社内に届いているらしい。 感情的な奥様。 離婚を受け入れられずに拗れている女。 口うるさい女役員の悪口は、みんな大好きだ。仕事の連絡より、よほど早く回る。 午前十時、海外提携案件の定例が始まった。 先方へ出す収益計画は、今日中に確定させなければならない。ここで数字を誤れば、取引は飛ぶ。 会議室に入った瞬間、嫌な予感がした。 配布済みの資料に、前夜の修正版ではなく一つ前の版が混ざっている。しかも特損の注記だけが抜けていた。 「こ
ダイニングルームに入った瞬間、足が止まった。 義母の冴子、その隣には祖母の千鶴、向かいには朔弥さん。そして、夜の席にいることがあまりに自然すぎる一条澄麗。 胸の奥で脈がひとつ大きく跳ねた。嫌な予感だけが、遅れてはっきり輪郭を持つ。 澄麗は淡いグレージュのセットアップに細いパールを合わせて、まるで最初からこの家の夜の食卓に馴染むために育ってきたみたいな顔をしている。 「こんばんは、真尋さん」 澄麗がやわらかく微笑んだ。 「ごめんなさい、勝手にお邪魔してしまって。御門家とは家族同然のお付き合いですので、つい昔の癖で入ってしまいましたの」 私は一拍遅れて会釈した。 もう
「真尋。今はやめろ」 掴まれた手首が痛い。 腹の奥が焼けて、呼吸が乱れた。 叫びたかった。この場で全部、ぶちまけたかった。 彼の顔を見た。 そこにあったのは、私への心配ではなく、場を乱された苛立ちだった。 胸の奥を、鈍いものが刺した。 そのとき、澄麗の声が届いた。 「ごめんなさい。私、何か失礼でしたか?」 澄麗は困ったように目を伏せる。 完璧だった。責めたほうが浅く見える形に、もう整っていた。 「……いいえ。お気遣い、ありがとうございます」 噛みしめた唇が切れ、舌の裏に鉄の味がした。 朔弥さんの手が離れる。 そこだけが、熱を持って痛んだ。
昔、午前二時の会議室で、朔弥さんが紙コップのコーヒーを私の手元に置いたことがある。 御門ホールディングスを再建させようと二人で必死だったころ。 私の一番好きなオートミルクラテだった。 「まだやるのか」 「数字が嘘をついているので」 彼は私の肩越しに資料を覗き込み、すぐ近くで小さく息をついた。 「そういうところだ。せめて休むときは休め」 低い声が近すぎて、あのころの私はそれだけで少し浮き足立った。 彼が私を気にかけてくれているのだと、本気で思った。 再建の底で、ああいうくだらないやりとりができる夜だけは、私たちはたぶん同じ側にいた。 なのに今は







